<猫井登のスイーツ面白事典>
vol.60
パネトーネ(6)
5.日本への伝播(続き)
イタリア料理の草分けである堀川春子氏のお話の続きです。
堀川春子氏の料理の腕が口コミで評判をよび、当時イタリアブームが来ると先読みしていた伊勢丹からイタリア料理指導を頼まれ、伊勢丹の熱心な勧誘もあり、レストラン「カリーナ」がオープンします。
当初はイタリア料理に全く慣れていなかった日本人から様々なクレームもきたりしていたようですが、本物を提供したい。いつかはわかってくれるという堀川の意思により、赤字覚悟で本物を提供しつづける事となります。結果、当時日本に滞在していたイタリア人等からの絶賛もあり「カリーナ」は大盛況を遂げる事となります。
その後、伊勢丹に縛られる営業スタイルに飽きを感じた堀川春子は1967年に独立されます。 独立後はレストラン経営のみならず、イタリアへの日本人・料理人の派遣や日本におけるイタリア料理の普及活動などにも尽力する事となりました。
1980年にはレストランの厨房での活動から身をひく事になりましたが、料理講習等の形で後進の育成に身を粉にしていました。その活動は2008年に永眠されるまで続く事になります。
堀川春子氏の活動は最初から最後まで、イタリア人が日常的に食べていた料理を日本で広めるという事に焦点があてられていました。トマトソースのスパゲティーや「パンナコッタ」「ティラミス」といった堀川春子氏がイタリアで学んだ料理を本場そのままの形で一貫して提供。日本に本物のイタリア料理が広がる礎となりました。
▼パンナコッタ |
▼ティラミス |
さて、堀川春子氏の生涯を追ってきましたが、堀川氏がレストラン「カリーナ」開いた1962年に、お話を戻すと…
1964年東京オリンピック、1970年大阪万博と日本では国際的なイベントが続きます。
このような中、海外に目を向けた日本人が外国へと留学するようになり1960年代以降、料理人も海外に修行に行くようになります。ただこの頃はフランス料理に比べて、まだまだイタリア料理にはあまり目がむけられていなかったようで、イタリアへと留学した日本人の数は少数でした。
1970年代になると、落合務(おちあい つとむ)氏が1976年にイタリアへ修行に行かれ、1982年には赤坂でイタリア料理店「グラナータ」をオープンされます。開店当初はイタリア料理の知名度も低く連日開店休業状態に近かったようですが、当時のイタリア観光局 局長が来店してその料理を絶賛。
以降口コミで徐々にイタリア人で賑わうようになり、口コミにより日本人も多数訪れるようになり連日満席の超人気店へ。かの堀川春子氏もよく訪れてはその料理を褒めていたといわれます。
つづく