<猫井登のスイーツ面白事典>
vol.59
パネトーネ(5)
5.日本への伝播(続き)
今回は、日本におけるイタリア料理・菓子の受容についてのお話をしましょう。
フランス料理やフランス菓子が明治時代から国策として取り入れられたのに対して、イタリア料理・菓子の受容はかなり遅れます。
日本におけるイタリア料理の始まりは、1874年に新潟にできた「イタリア軒」でした…と書くと、なんだイタリア料理も結構昔から日本に伝わったんだと思われるかも知れませんが、実は、これは偶然によるものでした。
曲馬団(サーカス団)の一員として来日していたイタリア人、ピエトロ・ミリオーレ氏が興行中に怪我に倒れ、一人で日本に取り残されてしまいます。生活に困っていた同氏をかわいそうに思った、当時の新潟県令・楠本正隆氏が資金を援助。料理の心得があったピエトロ・ミリオーレ氏がイタリア料理店を開いたというものでした。
しかし、イタリア軒は、その目新しさからか新潟の鹿鳴館と呼ばれ、大いに繁盛します。1912年にピエトロ・ミリオーネ氏は帰国しますが、イタリア軒はホテルとなって現在でも新潟にあり、その味を受け継ぐホテル内レストランが営業しています。
第二次世界大戦時に、再び似たような事件が起こります。神戸に当時の同盟国イタリアの海軍司令官付コック長カンチェーミ・アントニオ氏を含む一団が港に入港。その後、1944年にイタリアが連合国に降伏を宣言。イタリアが同盟国から一転日本の敵国となったため、日本は一団を拘束しました。のちに釈放されましたが、カンチェーミ・アントニオ氏はそのまま日本に住み、神戸でイタリア料理店「アントニオ」を開きます。
本場イタリア料理が食べられる店として大繁盛して、その後、1985年には、店を東京・南青山へと移転し、こちらでも大盛況。このお店は、現在も営業しています。現在、東京のデパ地下で見かける「ANTONIO's DELI」は、こちらのデリカですね。
ま1962年、新宿伊勢丹本館で、日本人による初の本格イタリアンレストラン「カリーナ」がオープンします。オープンさせたのは、堀川春子氏(1917年生)!
堀川氏は、1932年、15歳のときに、保守的な家でのがんじがらめの教育事情にうんざりし、イタリア大使館付き通訳者であった井上富貴氏の住み込み家政婦の職につき、イタリア・ローマへと渡ります。持ち前の行動力と井上富貴氏によるイタリア語教育もあり、堀川春子氏は現地のイタリア人とも親交を深め、帰国する1937年までの間、本物のイタリア料理を習得します。
イタリア大使館勤務が終了し、日本に帰国後は洋裁などで生計をたてていましたが、1951年に、結婚の報告も兼ねて大使館時代の雇い主・井上富貴氏の所を尋ねます。その際、経歴を買われ、在日イタリア大使館での調理場勤務を打診され承諾。その後10年もの間、大使館でイタリア料理を振るいます。
▼<ズッパ ウンブラ> ウンブリア州の郷土料理である豆のズッパ |
▼<ビステッカ アッラ フィオレンティーナ> トスカーナ州のフィレンツェ風Tボーンステーキ |
つづく