<猫井登のスイーツ面白事典>
vol.58
パネトーネ(4)
4.パネトーネの世界への広がり(続き)
前回に続き、パネトーネがいかに世界に広がったかのお話です。
パネトーネは、南米大陸へ渡ったイタリア系移民によって、ブラジルやペルーなどの南米諸国にも伝わります。ブラジルでは1945年にバウドゥッコ社が、ペルーでは1950年にドノフリオ社が設立され、自国で製造・販売されるようになります。
ペルーでは「パネトン」、ブラジルでは「パネトーニ」と呼ばれており、南米諸国においてもパネトーネは、クリスマスには欠かせないお菓子となっていて、広く愛されています。これらの諸国では、チョコレート入りやオレンジ味など独自の進化も遂げているものもあります。
5.日本への伝播
「パネトーネは、いかに日本に伝わったのか…
日本におけるイタリア料理の受容と、フランス料理の受容と比較しながら、教えてほしい。」
これが、某新聞社から受けた依頼でした。
なんか、論文試験の問題みたいですが、お菓子の歴史研究家をしていると、こんな依頼にも応えていかなければなりません。
わかりやすいところからお話をすると…
日本では、1868年に明治維新がおこり、新政府は欧米列強から日本が植民地化されるのを防ぎ、対等な立場で交渉するため必死になるわけです。
日本は欧米に遅れていないぞと見せつけるため、外国からの賓客や外交官に対する「欧米式」の接待は必須とされ、1870年には、明治天皇より、今後外国からの賓客をもてなすにあたっては、「フランス料理」をもって行う旨の指示が出されます。
これに伴い、宮内省大膳職(料理責任者)にあった村上光保(むらかみ みつやす)が洋菓子の製法を学ぶべく、横浜外人居留地でホテルと洋菓子店を経営していたサムエル・ペールという料理人・製菓人のもとに出向します。
また、1883年には外国からの賓客をもてなす迎賓館として「鹿鳴館(ろくめいかん)」が建設され、村上は、鹿鳴館においてもその技術を遺憾なく発揮し、洋菓子一切の製造を担当します。
▼落成時の鹿鳴館 |
つまり、明治初期から、フランス料理、フランス菓子は、いわば国の政策として取りいれられることになったわけです。
では、イタリア料理・料理はどうだったのでしょうか? 次回はこのあたりの話をしましょう。
つづく